2012年2月4日土曜日

阿蘇山と桜島

ついでに???私にとっての西日本の代表的な火山である阿蘇山と桜島の噴火も。


阿蘇山

9万年前に大きな噴火をした後は、おとなしい火山ということです。


桜島

764年(天平宝字8年)の噴火
1471年(文明3年)の文明大噴火
1779年(安永8年)の安永大噴火
1914年(大正3年)の大正大噴火



 流石に、こんな、ものすごい乱暴な調べ方でわかるほど明確な関係は、地震と大きな火山の噴火の間にはないようです。

浅間山と磐梯山の噴火

昨日、富士山と地震のことを書いたら、他の火山のことが気になってしまいました。

とりあえず、私にとっての東日本の代表的な火山の浅間山と磐梯山の噴火をまとめます。


浅間山(ウィキペディア)

685年(天武天皇14年:飛鳥時代)(日本書紀)
1108年(嘉承3年、天仁元年:平安時代) 天仁大規模噴火。30億トンと推定される噴出物を伴う大噴火。天明の大噴火よりも大規模な噴火だったとされている。

1783年8月5日(天明3年7月8日) 大噴火。噴出物総量4.5×108m3
 
噴火記録は685年、1108年、1281?年、1427年?、1527-1528年、1532年、1596年、1598年、1604年、1605年、1609年、1644-1645年、1647-1649年、1651-1652年、1653または1655-1659年、1669年、1704年、1706年、1708-1711年、1717-1718年、1720-1723年、1728-1729年、1732-1733年、1754年、1776-1777年、1783年(天明の大噴火・鬼押出し)、1803年、1815年、1869年、1875年、1879年、1889年、1894年、1899年、1900年、1901年、1902年、1904年、1907年、1908年?、1909年、1910年、1911-1914年、1916年、1917年、1919年、1920年、1921年、1922年、1927年、1928年、1929年、1930年、1931年、1932年、1934年、1935年、1936年、1937年、1938年、1939年、1940年、1941年、1942年、1944年、1945年、1946年、1947年、1951年、1952年、1953年、1954年、1955年、1958年、1959年、1961年、1965年、1972年、1973年、1982年、1983年、1990年、2004年、2008年、2009年


 
磐梯山
(気象庁のホームページhttp://www.seisvol.kishou.go.jp/sendai/215_Bandaisan/215.htmから)
 
最近1万年間の活動


 磐梯火山では約2.5万年前以降にはマグマ噴火は記録されておらず、水蒸気爆発だけが起きている。堆積物として記録が残る水蒸気爆発は1888年噴火や806年噴火も含めて、最近5000年間で4回発生しており、その発生間隔は1100~1700年である。また、山体崩壊は、小磐梯山の南東側で約2500年前にも発生している。


 磐梯山は、東北に行く時に見えることもあって身近な火山と思っていたけど、火山としては浅間山よりおとなしいんですね。



2012年2月3日金曜日

大震災と富士山

今年に入って地震が多い感じがしませんか?


特に先週(1月28日頃)、山梨で比較的大きな地震があって、地震と富士山の関係が気になって少し調べたので、せっかくだからブログに書くことにしました。と言っても、ほとんどウィキペディアからの切り貼りです。


富士山の貞観大噴火

貞観大噴火(じょうがんだいふんか)とは、平安時代初期の864年(貞観6年)から866年(貞観8年)にかけて発生した、富士山の大規模な噴火活動である。

この噴火は、山頂から北西に約10km離れた斜面で発生した大規模な割れ目噴火である。長尾山ほか2、3のスコリア丘を形成し、膨大な量の溶岩を噴出させた。噴出物の総量は約14億m³にも及び、溶岩流は北西山麓を広く覆い尽くした末に、北麓にあった広大な湖・剗の海(せのうみ)の大半を埋没させた。江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起きた宝永大噴火とともに、富士山の噴火災害の特異例として数え上げられ、文献記録に残る富士山噴火のうちで最大規模とも言われている。

なお、この噴火で埋没した剗の海の残片が現在の富士五湖のうちの2つ、西湖と精進湖であり、溶岩流の上に1100年の時を経て再生した森林地帯が青木ヶ原樹海である。


貞観地震

去年の東日本大震災ですっかり有名になった869年7月13日(貞観11年5月26日)の三陸沖の巨大地震。理科年表(平成24年版)では、マグニチュード8.3。


宝永地震

宝永地震(ほうえい じしん)は、江戸時代の宝永4年10月4日(1707年10月28日13 - 14時頃)、遠州灘沖から紀伊半島沖を震源として発生した巨大地震(理科年表(平成24年版)では、マグニチュード8.6)。南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、かつては記録に残る日本最大級の地震とされてきた。地震の49日後に起きた宝永大噴火と共に亥の大変(いのたいへん)と呼ばれる。


南海トラフ沿いを震源とする巨大地震として、江戸時代には宝永地震のほかに下記がある。

慶長9年(1605年)の慶長地震
               (理科年表(平成24年版)では、マグニチュード7.9)、

嘉永7年(1854年)の安政東海地震
              (理科年表(平成24年版)では、マグニチュード8.4)
            安政南海地震
             (理科年表(平成24年版)では、マグニチュード8.4)

また、宝永地震の4年前(1703年)には元号を「宝永」へと改元するに至らしめた関東地震の一つである元禄地震(理科年表(平成24年版)では、マグニチュード7.9~8.2)が発生している。


富士山の宝永大噴火

宝永大噴火は、歴史時代の富士山三大噴火の一つである。ちなみに他の二つは、平安時代の延暦の大噴火、貞観の大噴火である。宝永大噴火以後、2011年に至るまで富士山は噴火していない。

宝永大噴火(ほうえいだいふんか)は、江戸時代中期の1707年12月16日(宝永4年)旧暦 11月23日に起きた。総噴出量は、約7×108 m3[1]と推定されている。

宝永大噴火の特徴は大量の火山灰であり、実際にも100 km離れた江戸にも火山灰が積もった。ただし溶岩の流下は見られていない。噴火がみられたのは富士山の東南斜面であり、合計3つの火口が形成された(宝永山)。これらは標高の高い順に第一、第二、そして第三宝永火口とよばれ、互いに重なり合うように並んでいる。ただし麓から見ると最も大きい第一火口のみが目立つ。なお、宝永山は登山道が整備されているため登山が可能である[2]。

宝永地震との関係

地震の前まで富士山の火山活動は比較的穏やかであったことが知られているが、大地震の49日後に大規模な噴火が始まった。地震の震源域となった南海トラフを東北に延長すると、駿河湾を通って、富士山西麗の活断層富士川河口断層帯と連続している。宝永地震の翌日には富士宮付近を震源とする大きな余震が発生した。



地震との関係 (富士山の噴火史から)

宝永大噴火は宝永地震の49日後に発生している。そのほかに南海トラフや相模トラフを震源とする地震や近隣地域地震の前後25年以内に、富士山に何らかの活動が発生している事例が多く、地震と富士山活動とは関連性があるとされる。

また、噴火活動ではないが、1331年の元弘地震(M7)や1792年、1891年濃尾地震では地震の震動で山体崩壊や大規模な斜面の崩落が発生した事が記録されている。



地震と富士山の噴火が関係があるのかもしれないが、まだ科学的に明確なことはいえないみたいですね。地震と火山の多い日本列島で生活する以上、両方とも常に気をつけなければならないということかな。