2012年2月3日金曜日

大震災と富士山

今年に入って地震が多い感じがしませんか?


特に先週(1月28日頃)、山梨で比較的大きな地震があって、地震と富士山の関係が気になって少し調べたので、せっかくだからブログに書くことにしました。と言っても、ほとんどウィキペディアからの切り貼りです。


富士山の貞観大噴火

貞観大噴火(じょうがんだいふんか)とは、平安時代初期の864年(貞観6年)から866年(貞観8年)にかけて発生した、富士山の大規模な噴火活動である。

この噴火は、山頂から北西に約10km離れた斜面で発生した大規模な割れ目噴火である。長尾山ほか2、3のスコリア丘を形成し、膨大な量の溶岩を噴出させた。噴出物の総量は約14億m³にも及び、溶岩流は北西山麓を広く覆い尽くした末に、北麓にあった広大な湖・剗の海(せのうみ)の大半を埋没させた。江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起きた宝永大噴火とともに、富士山の噴火災害の特異例として数え上げられ、文献記録に残る富士山噴火のうちで最大規模とも言われている。

なお、この噴火で埋没した剗の海の残片が現在の富士五湖のうちの2つ、西湖と精進湖であり、溶岩流の上に1100年の時を経て再生した森林地帯が青木ヶ原樹海である。


貞観地震

去年の東日本大震災ですっかり有名になった869年7月13日(貞観11年5月26日)の三陸沖の巨大地震。理科年表(平成24年版)では、マグニチュード8.3。


宝永地震

宝永地震(ほうえい じしん)は、江戸時代の宝永4年10月4日(1707年10月28日13 - 14時頃)、遠州灘沖から紀伊半島沖を震源として発生した巨大地震(理科年表(平成24年版)では、マグニチュード8.6)。南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、かつては記録に残る日本最大級の地震とされてきた。地震の49日後に起きた宝永大噴火と共に亥の大変(いのたいへん)と呼ばれる。


南海トラフ沿いを震源とする巨大地震として、江戸時代には宝永地震のほかに下記がある。

慶長9年(1605年)の慶長地震
               (理科年表(平成24年版)では、マグニチュード7.9)、

嘉永7年(1854年)の安政東海地震
              (理科年表(平成24年版)では、マグニチュード8.4)
            安政南海地震
             (理科年表(平成24年版)では、マグニチュード8.4)

また、宝永地震の4年前(1703年)には元号を「宝永」へと改元するに至らしめた関東地震の一つである元禄地震(理科年表(平成24年版)では、マグニチュード7.9~8.2)が発生している。


富士山の宝永大噴火

宝永大噴火は、歴史時代の富士山三大噴火の一つである。ちなみに他の二つは、平安時代の延暦の大噴火、貞観の大噴火である。宝永大噴火以後、2011年に至るまで富士山は噴火していない。

宝永大噴火(ほうえいだいふんか)は、江戸時代中期の1707年12月16日(宝永4年)旧暦 11月23日に起きた。総噴出量は、約7×108 m3[1]と推定されている。

宝永大噴火の特徴は大量の火山灰であり、実際にも100 km離れた江戸にも火山灰が積もった。ただし溶岩の流下は見られていない。噴火がみられたのは富士山の東南斜面であり、合計3つの火口が形成された(宝永山)。これらは標高の高い順に第一、第二、そして第三宝永火口とよばれ、互いに重なり合うように並んでいる。ただし麓から見ると最も大きい第一火口のみが目立つ。なお、宝永山は登山道が整備されているため登山が可能である[2]。

宝永地震との関係

地震の前まで富士山の火山活動は比較的穏やかであったことが知られているが、大地震の49日後に大規模な噴火が始まった。地震の震源域となった南海トラフを東北に延長すると、駿河湾を通って、富士山西麗の活断層富士川河口断層帯と連続している。宝永地震の翌日には富士宮付近を震源とする大きな余震が発生した。



地震との関係 (富士山の噴火史から)

宝永大噴火は宝永地震の49日後に発生している。そのほかに南海トラフや相模トラフを震源とする地震や近隣地域地震の前後25年以内に、富士山に何らかの活動が発生している事例が多く、地震と富士山活動とは関連性があるとされる。

また、噴火活動ではないが、1331年の元弘地震(M7)や1792年、1891年濃尾地震では地震の震動で山体崩壊や大規模な斜面の崩落が発生した事が記録されている。



地震と富士山の噴火が関係があるのかもしれないが、まだ科学的に明確なことはいえないみたいですね。地震と火山の多い日本列島で生活する以上、両方とも常に気をつけなければならないということかな。

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